アマチュア無線と私

【このページの最終更新日:1998年1月18日】

アマチュア無線は私にとって極めて大きな存在であります。 アマチュア無線が今日の私と 言う人間を決定付けたと言っても過言ではありません。 良きにつけ、悪しきにつけ、アマチ ュア無線は常に私にとって最大の影響を与えて来ました。 そんな私とアマチュア無線の係わ り合いを記した「アマチュア無線を知らない知人」に宛てた手紙をご紹介いたします。


アマチュア無線を知らない知人に宛てた手紙


1996年10月

前略

思えば、私が通信に興味を持ったのは中学1年生の頃でした。 幼稚園時代に街で出会った外国人(中 年女性でした)に「ハロー」と声をかけたら「Hello!]とにこやかに返事をしてくれた体験が 鮮烈で、アメリカ(当時は私にとって外国=アメリカ)にあこがれ、英語に惹かれアメリカの同年代 の女の子と文通を始めましたのです。 受け取った手紙の解読(!?)にその返事の添削に、職員室通い が続きました。 英語が好きで、アメリカが好きで、3年間一日ももらさずにNHKのラジオ講座を 聴き、卒業する頃には3年間の英語の教科書と、ラジオ講座のテキストはすべて目をつぶっても最初 から最後まで諳んじて口にする事ができる位でした。

そんな私が、高校に入ってアマチュア無線部の部室の前を通りかかった時に無線機から流れてくる英 語を聞いた事がその後の私の人生に決定的な影響を与えました。 元々機械好きだった私が、この素 晴らしい通信の世界に引きずり込まれるのは、偶然と言うよりか、むしろ必然でありました。 迷う 事なく、その場で入部し、免許もないのに持っていると言い張ってすぐにマイクを握り締めました。 その日、人生で初めて無線を通じて英語で通信をした相手はグアム島在住のアメリカ人でした。 今 では何を話したのか覚えていませんが、どれだけ興奮したかはご想像に難くないと思います。

それ以降、アマチュア無線の世界に没頭する日々が続きました。 とにかく自分の家からアメリカと 話がしたい、と悶々とした日々が続きました。 高校生では海外と「電話」で通信できる無線機を買 う事はとてもできません。 父から古いテレビを貰い母からクッキーの空缶を貰い、クッキーの缶を シャーシーにして、テレビからはずした部品を使い、とにかく自分で受信機を作る事となりました。 聞こえて来る英語に聞き惚れながら、送信機もつくりましたが「電話」をする為の電波型式を発射す るには高価な専用パーツが必要で、泣く泣く「電信」(モールス信号によるトン・ツー通信)専用機 しか作れませんでした。 それでも、とにかく英単語をならべアメリカ人と文字で会話ができる事が うれしくて、感激の日々が続きました。その頃は街を歩くと車が鳴らすクラクションがAだのKだの すべて英文字に聞こえ、(ト・ツーとかツー・ト・ツーとか鳴っている訳です)、街の英文字の看板 を見ると耳の中でとモールス信号が鳴り響いていました。

大学に入って、バイトができる様になり、遂に念願の「電話」ができる(マイクを使って音声で通信 できる)無線機を手にする事ができる様になりました。 もう夢の様な日々でした。 毎日アメリカ と1時間2時間と交信を楽しみ、英語の文法上の質問をしたり、彼らの生活や考え方を聞いたり、毎 日が自分にとって「革命」の嵐でした。 交信の最後にアメリカ人に「How's my English?」と 質問すると、社交辞令のうまい彼らは決まって 「You speak very good English. I wish I could speak Japnese as well as you speak English」と判を押した様に言ってくれました。

そんなある日、いつもの様にCQコールを出していると、アラスカのRayと言う人が呼んで来て、 交信が始まりました。 私はいつもの様に「How's my English?」と聞きました。 定番の答えを期 待してた私に、何とそのRayさんは「You have a very bad japanese influence on your English accent」と言ってきたのです。 その単語は「signal」と言う単語でした。 その日それ から30分間にわたり、発音をなおされました。 たったその一単語を30分かけて忍耐強く直して くれたのです。 交信の最後にRayさんは「もしこのレッスンを続けたかったら、明日同じ時間 に同じ周波数に出ておいで」と言いました。 これが私の人生をその後大きく変えてくれた偉大な恩 人との最初の出会いでした。 その翌日から、大学4年間の間、ほとんど毎日、短くても1時間長い 日は3時間以上も交信が続く事となりました。交信の内容はおよそすべての事に渡り、写真やプレセ ントの交換もあいまって、まだ一度も会ったことがないのに、お互いに旧知の友の様にかけがえのな いフレンドシップで結ばれる様になりました。

その後、大学卒業前に、Rayさん一家に会いたいの一心で一ヶ月にわたりアメリカ放浪の旅にでま した。 もちろん、Rayさん宅に一週間も泊めてもらいました。 いつも交信で聞かされていたオ ーロラが滞在中に一度も見れず、私以上にRayさんが心を傷めていたところ、夜アンカレッジ空港 まで見送ってもらう道中、山の中で急に車を止め彼は大声で叫びました。彼の指差す天を見るとそこ に美しいオーロラが広がっていたのです。 二人は感激で、目に涙を浮かべて喜び、そして別れを悲 しんだ事は今でも決して忘れる事のできない思い出です。 Rayさんと別れて「Lower 48 States」を、今まで交信をしたハムを尋ねて旅を続け子供のころか ら夢見てきたアメリカが期待を裏切らない素晴らしい所である事を確信しました。 一言で言って、 アメリカと、アメリカ人の素晴らしさは、その広大な自然と、それに負けない雄大でおおらかな国民 性でありました。

Rayさんとは実に多くの事を試みました。 当時アルバイトでトラックの運転手をしていましたが なんとか道中Rayさんと話ができないものか、と当時としては極めてめずらしい、短波帯(外国と 交信する為には短波帯が必要です)の移動通信にチャレンジしました。 当時は真空管全盛の時代で すから、まず車の中で高電圧、大電力を確保する事から試練は始まりました。 アンテナもトラック の幌の端にポールを立て、ワイヤーを車の上に張り巡らしたり、コイルを挿入したり試行錯誤が続き ました。 初めて走行する車からRayさんの信号をキャッチし、震える声でコールをしお互いに明 瞭に通じた時は、赤信号も忘れ、フルアクセルで興奮して街道を突っ走ってしまいました。(!) 今 では専用の高性能車載用短波帯通信機やアンテナもあり、大した事でもない事ですが、当時はまだま だパイオニアの領域でありました。

その後、何年か経ち、パソコンに出会う様になった事が、私の通信との係わりに大きな革命をもたら す事になりました。 当時はパソコンを言っても秋葉原中さがしても置いてる店はほとんどなく、ご く一部のマニアが真綿にくるむ様にして触わっていた時代でした。 何か得体のしれないこの玉手箱 にいいもしれぬ魅力を感じ、ベーシック言語の習得に熱中しました。 私にとって、英語もコンピュ ータ言語も同じでありました。 どちらもコミュニケーションを実現する為のツールで、それをマス ターすれば新しい世界がそこに展開されるのですから。

最初に作った実用になったソフトは無線交信日誌のソフトでした。 この言語をマスターする事で、 私のコミュニケーションの世界はより効率化され、CQコールに呼んできたアメリカ局のコールサイ ンをその場で入力する事により、マイクが返ってきた時に、すかさず「Bobさんこんにちは!  18才のお嬢さんはお元気ですか? 1年3ヶ月ぶりの交信ですね!」と言ってやった時に相手が腰 をぬかして驚くの見る(聞く)のが実に愉快でした。

今から10年程前になると、無線界で、「パケット通信」と言うものが導入される様になりました。  いわゆる電波を利用した「パソコン通信」です。 いち早くこれを始めたのは言うまでもありませ ん。 Niftyと同じ様に有志のハムが自分のパソコンをホストに仕立て、電波を使って他の多く のハムがアクセスをし、フォーラムに読み書きをするのです。

私はホストにアクセスするだけでは全く満足できず、自分でホストを動かしたくなりました。 思い 立ったその日から、プログラム書きの日々が続きました。 約1年後には立派(!?)なホスト・プログ ラムが完成、私のパソコンと無線機は24時間関東一円のハムがアクセスをし続け大賑わいの日々が 始まりました。 (その後そのソフトはバージョン・アップを重ね、一般にフリーウエアとして公開 最終C言語をマスターしてCで書き直し、今でもNiftyのFHAMフォーラムにアップ・ロード されています。)

この新しい通信との出会いで、私の人生はまた大きく広がりました。1対1の限界的なコミュニケー ションから、不特定多数の相手とのストックベースの情報交換は、自分の能力と可能性を大きく拡大 してくれました。

7、8年前になって、パケット通信の世界に一つの革命が訪れました。 アメリカのハムが開発した 「パケットクラスター」の登場がそれでした。 今までのホスト対1ユーザーの接続ではなく、同時 に手と手をつなぎ無限チェーンを構成する事により無限数のユーザー(ハム局)がコネクトし、リア ルタイムに全員を相手に情報を飛ばしあう事ができる様になったのです。このシステムを放って置く 事ができる訳がありません。 このシステムをいち早く輸入し(日本で確か5番め位だったと思いま す) このシステムのノード局(手をつなぐ為のホスト局・・・・他のノード局とリンクを取りチェ ーンを形成していく)を開局しました。多くの海外交信を楽しんでいるハムがリアルタイムに海外の 珍局の出現情報を交換する為に、爆発的勢いで参加してきました。 今では、全国に100近くのノ ード局が存在し北は札幌から南は宮崎まで数百局のハム局がネットワークに24時間つながるまでに なっています。 私は韓国で同じ様なシステムを国内で運用しているハムと連絡をとり、日本で初め て短波帯を使って彼らともリンクをとる事に成功しました。 ですから、空中状態の良い日は我が国 国内にとどまらず、東南アジアの広大なネットワークを構成する事ができる様になりました。

こうなって来ると今まで地域差(電波の伝播状態は時間と地域で全く異なって入る)があって絶対入 手不可能であった情報が、皆で共有できる様になり、熱心なハンターだけが手にしていた珍局との交 信の持つ意味が大きく変わる様になって来ました。 正に、技術の進歩が通信の仕組みを変え、更に それが世の中の価値や常識を変えて行くのを実感する事になった訳です。

また、時を前後して、短波帯を利用してカラーの静止画像データ伝送の実験が行われる様にあり、私 もそのシステムを取り入れ、いまでは例えばスペインのハム局と会話を楽しみながら、「今から家族 の写真画像を送りますよ」と言ってわずか30秒程でカラー画像を送る事が出来てしまいます。 会 話がどれでどれだけ盛り上がるか想像に難くないと思います。

更にこの数年間、アマチュア衛星を利用した、広域通信が盛んに進められています。 短波帯のよう な、大きな設備を必要とし、空中状態に左右される不安定な通信が、衛星さえ飛来すれば確実に簡単 な設備で交信できるのですから、まさにこれからの通信の主役となるのは間違いありません。 私は 自分の車にもこの設備を搭載し、(ほとんど前例の無い試みでした)キャンプ地からでも簡単にアメ リカやヨーロッパの友達と交信をして活用しています。

今、インターネットが騒がれていますが、思えば既に7、8年前ハムの世界で革命を起こしたこのパ ケット・クラスターがまさにインターネットの特徴のひとつである広域ネットワークとしての特性を 具現化していた訳です。 マルチメディアはすでにハムの世界で先行し、音声・画像・文字データの 融合と有機的活用が実践されていた訳です。

「人生の豊かさは、人とのコミュニケーションの広さと深さである」と信じている私のコミュニケー ションの歴史は、

 1. 文通(手紙)
 2. 無線電信(モールス)
 3. 無線電話(会話)
 4. スタンドアロン型パソコン無線通信ネットワーク(文字伝送)
 5. 広域ネットワーク型パソコン無線通信ネットワーク(文字伝送)
 6. 画像データ通信
 7. 衛星通信(モールス、会話、文字伝送、画像データ伝送)と、発展成長してきた訳です。

そしてこの発展を支えた物は、個人的にはコミュニケーションをしたいと思う熱意であり、背景的に はパソコンの台頭でありました。

これから、どの様にこの世界が発展していくのか興味が尽きません。 インターネットが新聞の様に 浸透して来ることはもはや疑う余地もありません。 今や技術的な問題はほぼ完成の領域に近づいて いる様です。 むしろ運用面での、問題が今後議論されて行く様です。 今後は通信衛星の活用が大 きなテーマとなって来る様に思えます。 ハムの世界でも間違いなくその方向に香しい匂いがして います。 今後ともパイオニアの名に恥じない様に(自分でそう思っているだけですが!)世の中の 技術と人の気持ちの流れと方向を見据え、この世界の理解者であり実践者でありたいと思っています。

草々



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